カンボジア −偉大なアンコールワット遺跡群とポル・ポト派による悲劇−

  カンボジアへ行ったのは98年3月のこと。今考えると、ポル・ポトが死ぬちょっと前だったことになる。当時はポル・ポトの勢力はすでに衰えていたとはいえ、まだまだ地方によっては油断のならない時期だった。周知の通り、ポル・ポト政権による圧制がひかれていた時代は昔のことではない。カンボジアで聞いた話によると、5人に一人、一家族に一人の割合で殺されたという。カンボジアの知識階層が迫害を受け、弁護士が10人に満たなくなってしまったのも有名な話で、日弁連がボランティアで法律家を何人か派遣していたこともあった(今でもやっているのかしら?)。今でも数多くの地雷が埋まっているが、その当時は今以上にたくさん埋まっていて、決められたルート以外は通れない状態だった。ポル・ポトによる恐怖政治以来、アンコールワット遺跡をはじめとする、すばらしい観光地にめっきり人が来なくなってしまったが、カンボジア政府としてはポル・ポト勢力もかなり弱まってきたし、そろそろ観光誘致に力を入れたい、そんな時期だったと思う。
 

  カンボジアへはベトナム・ホーチミンから飛行機で首都プノンペンへと入った。そこからアンコールワットを見るためのツアー(*1)に参加していたのだ。しかしベトナムのダナンで、はしゃぎまわったツケ(*2)がまわり、40度近くの熱を出してしまった。せっかくアンコールワットについたのに、第一の門の前から先に動けない。日中の気温は40度もあったが、寒くて震えが止まらない。横たわった石は焼けるように熱いハズなのに、これがとても心地よい。列からはずれてそこでしばし寝ている(倒れていたのか??)と、スタッフの一人が驚いてホテルまでつれて帰ってくれた。その日の夜は朦朧として覚えていない。一人の女性が夜中、バナナと熱い紅茶を持ってきてくれた。おお、ナイチンゲール!!(と思った、そのときは。)今でもお礼を言いたいのだが、彼女がどこの誰だったのか、さっぱり分からない。そんな風にして、貴重なアンコールワットの一日は終わってしまった。しかし、翌日は4:00頃に起きて、朦朧としたままアンコールワットに向かい、朝日を拝んだ。それは息をのむほど美しかった。

 しかし!あまりの腹痛に何も食べられない。こんなことは初めてだった。今まで、どこで何を食べても全く問題なかったのに。ベトナム、あなどれない・・・(以降、気を遣うようにしている)。結局、カンボジアでの4日間、砂糖をたっぷり入れた紅茶以外は何も飲み食いできなかった。

 その日はアンコールトム遺跡だった。ようやく意識も回復し、歩けるようになっていた私は、このすばらしい遺跡を堪能した。この遺跡群は、1860年代まで、その存在すらジャングルの奥地に忘れ去られていたのだ。その日はシェンムリアップの市場など(衝撃!猿の干物を発見。。)を見てまわった気がする。何しろ、アンコールトム以外は残念ながら何も覚えていないのだ。



 翌日はプノンペンに向かったのだと思う。首都プノンペンは漢字の看板であふれていた。以前にも来たことのあるスタッフは「全く変わってしまった!」と驚いていた。ポル・ポト政権の間、いつの間にか中国人が経営者に変わったというカンジだろうか。プノンペンには「トゥールスレーン博物館」という、収容所という名の元拷問・処刑場(収容された2万人中生きてでられた人はたったの7名)があり、そこがポル・ポト政権時代に殺された人々の記念館になっている。中はすごい。処刑された人々の写真、どんな風に殺されたのかが詳しく展示されており、そのラストには、援軍となったベトナム人によって作られた(というか、ベトナム軍の力を誇示するような)、人骨で出来たカンボジアの地図が飾られている。そのあまりのむごさ、おぞましさに誰もが黙り込む。私の生きている時代、それもほんの数年前に起こった出来事に、言葉を失った。プノンペンには地雷で手足を失った人々が5万とおり、今でもその被害は続いている。少し離れたところにキリングフィールド(Killing Field)という、その名もおぞましい丘があり、そこには人骨が未だ散乱していた。人が殺戮された(それも大量に)、その現場を見たのはそのときが初めてだった。それ以来、私は心底地雷を憎み、人々が意味もなく殺されることに心から嫌悪と、怒りを覚えるようになった。きっとほとんどの人がそう思っているだろうけど、やはり現場で受けた衝撃はとても強い。とてつもない怒りに、吐き気がするほど、本当に、心底腹が立つのだ。

 このクルーズはちょうど長野オリンピックの後だったと思う。ピースボートの地雷撤去支援チームが、長野オリンピックなどを通じて集めた募金を、現地の地雷撤去を専門としている団体に寄付したり、そのセレモニーに長野オリンピックでトーチに点火したクリス・ムーン(地雷撤去をしているときに両足を失って以来、車椅子で活躍しているマラソンランナー)も来てくれて親睦を深めたりと、とても充実したツアーとなった。

 事前の取り決めでは、プノンペンから船の待つシアヌークビルには、陸路国道沿いに4時間ほどかけて移動することになっていた。しかし、この国道がくせ者で、未だにゲリラが横行しているという。日本政府からの回答は「絶対通ったらあかん!」であったが、カンボジア政府からは「ぜひともアンコールワットへ来て欲しい!そのためには何でもする!」ということだった。カンボジア政府にとっては、この時期400人近くの人々がカンボジアを訪れると言うことは、信頼と観光業を復活させる大きなチャンスだったのだ。「何でもする」ということで、双方の折衷案がシアヌークビルまで「ヘリコプター」で移動するとのことだった。当時まだピースボートの1ボランティアスタッフであった私には詳しいことは知らされていなかったが、とにかくそんなことだったと思う。



 そのヘリコプターは「6m×12m」*とのことだった。不思議だ。普通「100人乗り」とか表現されるのではないか??そう疑問に思っていたら、ヘリの発着場に到着してから瞬時にその理由を理解できた。「6m×12m」の巨大なヘリコプターが、8枚くらいある大きな羽をぐぅわんぐぅわん回していたのが見えていたからだ。それはいわゆる「物資運搬用」の軍事ヘリで、迷彩色を施されていたその機体には、シートベルトはおろか、座席など皆無に等しかった。そのヘリ一台に約100人の人々が乗り込んだ。木のベンチがヘリの端に置かれていて、連日の暑さに参っていた病人たちをそこに座らせ、誰もがぎゅうぎゅうと詰め合って、床に座った。しかし前の方が座り込んでしまうと、後ろの人は座れない。へりは後方に立ったままの人々を乗せ、重たげに飛び立った。この緊急時にあって、人々はとてもいたわり合っていた。誰もがぐったりとしている病人を帽子などであおぎ、お年寄りには席を譲り合っていた。自分勝手な人がかなりいて、ちょっとウンザリしていたところでもあったので、そんな光景には感動してしまった。

 一時間もするとヘリは何事もなくシアヌークビルの草地に到着した。遠くに美しい海。それに新さくら丸が停泊しているのが見える。ああ、無事についた!なんだか心の底からほっとしてしまった。今思うと貴重な体験だが、あのときはドキドキしてしまったものだ。今のピースボートでは、あんなやんちゃなことはもうしないだろう。ちなみに、数年後、私が責任者の一人になってからの「ピースボートで何が一番面白かったか」という、リピーター向けのアンケートを採ったら「カンボジアのヘリコプター!!すごい経験だった」という意見を年輩の方からいただいた。

 全くその通りだ。今でもカンボジアというと、貴重な体験の数々を思い出す。あのヘリコプターと共に・・・。



*ツアー・・・第22回ピースボート「春風ASIANクルーズ」(1998/02/26〜03/19)。船は商船三井の今は亡き「新さくら丸」。乗船者数約400名で、乗船者であったにもかかわらず、すでに船内でビザの書類を書いたりで連日徹夜の大忙しだった。間違ってる・・・。

*はしゃぎまわったツケ・・・ダナンで恐れもなくかき氷を食べたりして、腹痛を起こし、40度近い熱が発生。しかもプノンペンに入る前日、なぜか我慢して徹夜で仕事を手伝っていたのだ・・・。お金も全額払っていたのに。アホとしかいいようがない。。

*「6m×12m」・・・全くうろ覚えで申し訳ないが、確か「6m×12m」だったような気がする。もっと大きかったのかも。何しろ5年も前のことなので・・・(^^;。

モドル

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