エリトリアとの出会い−オリンピックキャンペーン(2)−

何とも暑くて熱い夏だった。
エリトリア選手団を日本に迎えた私たちは、彼らが練習できるよう、手配せねばならなかった。しかし、資金はない。ボランティアで提供してもらえるところを探すことから始めねばならない。骨を折ったが、前半は「早稲田自転車部」のみなさんが、トレーニングも合宿所も無料提供してくださることになり、後半は日本のオリンピック選手が集まる修善寺の「サイクリングセンター」でさせてもらえることになった。ホテルは「ラフォーレ修善寺」。双方とも、すべて好意で無料提供。修善寺での合宿が行われる前、キャンペーンの主旨と協力を呼びかけるために修善寺に正規のスタッフと私で行ったのだが、そのときに快く「がんばってください」と承諾してもらったのだ。当日、そんなプレゼンなどしたこともない(大体、無料提供だ!)私は、ただ緊張してスタッフの陰に隠れているのが精一杯だった。堂々とキャンペーンを紹介する一つ年上のスタッフが、とても頼もしく見えたものだ。

 

選手団が到着した当日、記者会見が行われた。次々と名刺を片手にメディアのみなさんがやってきた。記者会見なんてもちろん初めての体験だった私には、堂々としているスタッフにただただ、感心するばかり。記者会見も無事に終わり、いよいよ選手の合宿がはじまった。たびたび行われる、代表団とのミーティングは英語でなされた。これも一つ、びっくりしたことだった。それまでインターナショナルな環境に居たことがなかったからだ。とにかく、刺激の強すぎるオリンピックキャンペーンだった。

私はなぜか、修善寺でのトレーニングに付き添うことになっていた。4泊5日の強化合宿だ。付き添っていたのは、キャンペーンの中心となってきた大学生のオトコノコと吉岡さん、それに通訳の4人。しかし、自転車の知識は無いに等しい。私に至っては、初めて早稲田の合宿所で競技用の自転車を見、ブレーキがないことに驚いたのだった。着いたところで「自己トレーニングじゃなくて、ちゃんとしたコーチでもいればなぁ」などとつぶやいていたときに、ちょうど昼食の席で、アトランタオリンピックで銅メダルを取ることになる十文字選手ら、オリンピック選手3名が食事をしていた。自分たちのキャンペーンを紹介すると、その中のアマチュア一位だった塩原選手が「おもしろい企画ですね。僕がコーチを引き受けましょうか」と言って下さったのだ!!

塩原選手は「スポーツ科学」に精通していた。ただ走るだけのトレーニングじゃない。体をどうしたらベストに持っていけるのか、いろいろと興味深い話を聞かせてくれた。彼らには衝撃的だったようだ。とにかく、そんなことは考えられない状況で今まで生きてきたのだから。



 合宿二日目だったか、その夜、突然吉岡さんが帰ることになった。東京ではニュースステーションが取材を続けており、どうしても帰ってきて欲しいとのことだった。

「え、どうするんですか、明日の記者会見は!!」という私の叫び(泣き)に、「何とかしてくれや!できるって!」と言い残し、彼は去っていった。そう、私たちはここラフォーレ修善寺で、明日に記者会見を控えていたのだ。それに、何社かすでに同行取材もあった。スタッフは大学生の彼と私だけ!(加えて言うなら、二人ともボランティアスタッフ、通訳ももちろんボランティアスタッフ)もう、どうしろっていうのだろう・・・。とにかく、私に至ってはエリトリアを知ってまだ2週間(それで合宿に同行してるのもどうかと思うが・・)なのだ。その私が、明日、知ったかぶりで取材に応じなければならない。なんだか、ただもう、泣きたかった。

記者会見が初めて、それはラフォーレ修善寺も一緒だった。会見場をきれいにセットアップしてくれた担当者は「初めてなので、テレビでみかけるようなカンジにしてみました」と、心持ち緊張している。そう、金屏風の前にきれいに花までセットされて、いかにもな記者会見場ができあがっていた。時間になると、新聞、ラジオ、テレビ局までが取材に来てくれた。私はどうにかこうにかエリトリアの歴史について、大学生の彼はこのキャンペーンについて説明し、記者からの質問(!!)にもしどろもどろながら答えたのだった。



合宿を終え東京に戻った翌日、山手線に乗っていると、隣の男性が大きくスポーツ新聞を広げていた。あれ?どこかで見た・・・、あ!うちの記事!!そう、修善寺へも同行取材してくださったある記者の記事が載っていた。裏一面、フルカラーで、大きく選手二人の写真がでている。その新聞を読んでいたおじさんに、私は涙ぐみながら「その新聞はどこに売っているのですか」と聞き、生まれて初めてスポーツ新聞を買った。山手線でスポーツ新聞を広げて泣いているのは私くらいだろう。今までの苦労(と吉岡さんの翻弄(^^;)があれやこれやと浮かび、泣けて仕方がなかった。

そのあとも橋本聖子選手が励ましに来てくれたりで、刺激的なままキャンペーン(キャンペーンの詳細はコチラでチェックして欲しい)が終わった。全然集まらなかった募金は、ニュースステーションがすばらしい番組を流してくれたおかげで(20分もの番組!しかも別の日に後編も!)、久米さんが「募金はこちらまで」といい、電話番号を書いた台紙が全国放送に流れた瞬間から、事務所の電話は鳴りやまなかった。驚いたNTTが電話をかけてきて、「お宅、どうなってるんですか?一分間に3000も電話がかかってきて、パンクしてますよ!」と言っていた。全国のみなさんのおかげで、募金は1300万円。それまで50万円しか集まっておらず、有志60人、一人あたり6万円を自腹で払っていた(ちなみにこのため、私は一日200円の食事代を強いられていた(^^;)くらいなので、本当にありがたかった。(応援してくださった方、ほんとにありがとう。)

これが私の、ピースボート内での初仕事だった。選手のマネージャーから交渉、取材に記者会見と、わずか1ヶ月の間に起こった出来事だった。それは今までとは全く違う、刺激的な数年間の始まりとなった。

こうしてともかく、エリトリアは私にとって最も忘れられぬ国となったのだ。


エリトリアのトップへモドル

ホーム  旅のはなし  旅の記録  旅のランキング
旅の写真たち  愛すべきオミヤゲ  旅以外のこと