パレスチナ −1997年2月・ガザ自治区 −

 パレスチナには都合3回訪問している。初めての訪問は、二回目のオスロ合意後の1997年2月くらいだったと思う。朝日新聞の、第20回「ピースボート地球一周」の記事に「パレスチナのガザでホームステイを予定」という一文があった。たったその一文で、私はピースボートの事務所へ向かい、そのままボランティアスタッフになってしまい、そのまま地球一周(当時の地球一周は一番多かった価格帯が200万前後というモノ。ぷーたろうの私にはものスゴイ覚悟が必要だった)に申し込んでしまったのだった。初めて訪問した事務所でそのまま申込書を書いてしまった私も私だが、騙されたと言うしかない(^^;。騙されて正解とでも言おうか、ピースボートを通して学んだことは数え切れないが、とにかく私に参加しようという気にさせたのが、この朝日新聞の「ガザにホームステイ」の一文だったのだ。

 

 「ガザ」と聞いて何を想像するだろう?今や連日のようにニュースになり、パレスチナとイスラエルの悲劇が伝えられているのでご存じの方も多いだろう。ガザはパレスチナの代表的な自治区で、イスラエル南西の海岸沿いにあり、エジプト国境に接している。わずか6km×45kmの細長い土地だ。そこに数多くのパレスチナ人が難民キャンプに暮らしている。着岸したのはイスラエルのアシュドッドで、厳重な税関審査を受けて下船した後、バスでガザに向かった。イスラエルからガザ地区に入る時の検問が長引き、ガザのラッファというエジプト国境沿いの街に到着したのはもう夜中といってもいい時間。たった一泊のホームステイだったが、おうちの方がご馳走を用意して待っていてくれた。もう夜中で、くたくただし何もお腹に入りそうもなかったが、がんばって食事をいただいた。おばあさんが家のすぐ側に張り巡らされている鉄条網に連れて行ってくれた。遠く向こうにオレンジのライトが煌々とあたりを照らしているのが見える。「あの光の向こうがエジプト国境。わずか何百メートル先だけど、私たちは一生この鉄条網から出ることはない」と語る彼女の表情に、苦痛も何も見えなかった。これが日常なのだ。あたりにはイスラエル兵士が大きな銃を構えてうろうろしている。銃を見たのもここが初めてだった。なんだか金縛りにあったように動けなかった。毎日彼女たちはあのバカみたいな検問所を通ってイスラエル側に仕事に行く。帰りも何時間もかかってキチガイじみた検問所を通らねばならない。いちいち銃を突きつけられて、毎日荷物検査を受けて・・・。それでも仕事があるのは運のいい方だ。ほとんどの人が職を得られないまま、絶望的な状況で暮らしている、それがガザの人々だった。



 英語がままならなかったので、あまり込み入った話は出来なかったが、その家のお嫁さんが私たちに部屋を案内してくれたときに、「一緒にマカレナを踊ろう」と言ってくれた。実は女性は人前で歌うことや踊ることは禁止されている。このラッファに来る前の歓迎会やラッファにくる道中のバスの中で、私たちは踊りをガザの人々に強要され(^^;、歌ったりさせられたので、「一緒に踊ろう」と声をかけたのだが、若い女性は「禁止されてるからダメ」といい、長老のようなおばあちゃんに「若い娘はそんなことしちゃいかん」と言われているのを耳にした。「私たちだって若い女性よ」というと、おばあちゃんは「外国人はいい。楽しいからもっと踊れ!」と上機嫌でいうのであった。しかし他の国から人が来るなんてコトがまずないガザに、同い年くらいの若い女性が来たということで、若いお嫁さんも非常にエキサイトしていたらしい。おばあちゃんに隠れてこっそりと踊ろうというのであった。古ぼけたカセットテープから「マカレナ」*が聞こえはじめ、もう明け方近くにも関わらず、私たちは手を取り合って踊った。

 ここガザで、とてもステキな場面に出会えた。夕食を取っていた場所のすぐ横で、結婚式が行われていたのだ。それもこのホストシスターが教えてくれた。「こっそり見に行こう」ということになったが、相変わらず私たち二人に銃を持った兵士が二人もついてきた。結婚式場というより学校の体育館であったが、そこにはベールを脱いだ女性ばかり100人くらいが座っていた。花嫁が壇上に座っている。どう考えても私は場違いだったが、手を引かれていきなり壇上にあげられた。壇上には花嫁と私だけ。一斉に大きな拍手が湧き、またもやマカレナがかかった。この突然の珍客に、踊れというのだ。全くもう、頭が真っ白になってしまったが、やるしかない。半ばやけくそで踊った。やんややんやの大喝采。花嫁に祝福の声をかけて、結婚式場を後にした。このつらいガザで、一つの幸せな場面に立ち会えたことを、私は一生忘れないだろう。



 ほぼ貫徹に近い状態で翌日を迎え、おばあちゃんが私を集合場所まで連れて行ってくれた。朝ご飯にと、難民キャンプの露天で新聞紙にくるまれたピタパンを二つ買ってくれた。中にはピクルスと野菜が入っているだけの非常にシンプルなモノだったが、これまでにないくらいおいしかった。おばあちゃんの肩を抱いて別れを惜しんだ。

彼女たちはまだ無事でいてくれるだろうか。ガザで事件が起こるたび、私の胸はキリリと痛くなる。

各家庭にちらばっていた「ガザでホームステイ」コースの参加者たちは、それぞれの思い出を抱えてサッカー場に集まってきた。ここで子供たちとサッカーの試合をするのだ。あっという間に時間は過ぎ、再びバスにのって検問所に向かった。この検問所で、いちいち乗客は降ろされ、バスに爆弾が仕掛けられていないかなど、徹底的に調べられる。何と車体も持ち上げられて、車体の下に兵士が潜り込んでチェックする。次は乗客である私たちの荷物検査。検査場には鉄条網が張り巡らされ、向こうにパレスチナ人がずらりと順番待ちしているのが見える。いかつい銃を構えたイスラエル兵士たちがウロウロしている。ここは戦場なのだ。イスラエル兵士の一人が私を見て、人なつっこくニッコリと笑った。どう見ても私よりも年下だ。話しかけられたので話をしていたら、まだ二十歳だという。あどけない顔に迷彩色の軍服、まだ子供なのに大きな銃を抱えている。何かが間違っている。これが彼らの日常というのだろうか。突然、大きな騒ぎが起こって、何人かが何かを遠巻きに銃を構え始めた。どうやら私たちの誰かの荷物が問題だったらしい。それは鉄で出来た、ただの爪切りだった。いくら説明しても「これは弾丸ではないか」と言って聞かない。いろいろなチェックをし、ようやく危険性がないことが判明したようだったが、再び私たちの荷物をさらに厳重に調べ治すという。たった一つのミスでも、自分たちの命に関わるというのだ。結局、検問所を抜けるのに3時間くらいかかってしまった。パレスチナの深刻な状況をつきつけられた、つらい二日間だった。



 いつかガザに入港する、それはピースボートの大きな夢。たくさんの国籍を載せて、それにはもちろんイスラエル人も含まれていて、「平和の船」が着岸する。そして私たちは手に手を取って、笑いながら踊るのだ。そんな日が来たら、どんなにいいだろう。


*「マカレナ」・・・ダンスミュージック。この年、このマカレナが大流行していた。日本で流行っていたのかは知らないが、この初めての地球一周でたくさんの国を訪問したときに、良く踊ったのがこのマカレナだった。正直、マカレナがこのガザでも流行していたとは驚いた!振り付けも同じでまたビックリ。


モドル

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