パレスチナ −1999年12月・パレスチナ西岸地区  −

 つい先日、衝撃的な映像がCNNで流れた。西岸地区・ラマラのアラファト議長府の周囲がイスラエル兵によって破壊されたのだ。それは3年前、私が訪れた、まさにその場所だった。当時、議長府の周りを案内してもらい、貧しくはあったが裏路地にお店や露天も出ていて、なかなかにぎやかだった。建築中の建物に上らせてもらい、破壊の跡をあちこちにとどめてはいたが、月夜に照らされたラマラの街はそれでも美しかった。私はそこで、アラファト議長にお会いすることが出来た。そのラマラが、今は無惨にも破壊されていた。もう、あの場所はないのだ・・・、そう思うと、くやしくてやりきれなくて、涙が頬を伝った。

 

 再びパレスチナを訪れたのは99年の12月のことであった。当時すでにピースボートの出入港担当者だった私(船の出入港が仕事だったのだ)は、エジプトからイスラエル間のわずか数時間の船上で、厳しいイスラエル入国の準備に徹夜で取り組んでいたのだが、どういうわけか、その私がボロボロの体でツアーの添乗もせねばならなかった。そのツアーが「西岸地区を訪問」するというもので、ナブルスやアラファト議長府のあるラマラ、エルサレムに死海、ジェリコをも訪れることになっていた。正直言って、体はボロボロ、ここ数日まともに寝てないし、歩くのもやっとというカンジではあったが、西岸地区に行くということが、まるで麻薬のように私を元気にさせた。気がかりなのは、私が西岸地区について全く勉強をしていなかったということ。時間が全くなくて(そもそも添乗を依頼されたのがほんの数日前だった!)、準備が思うように出来なかったのだ。しかし非情にもツアーは始まってしまった。現地のツアー担当者からもらっている情報もほんのわずか。特に今夜の宿泊所が気がかりだった。元刑務所を改造した、パレスチナ人の青年合宿所で、部屋も何人部屋か不明。とりあえず事前の説明会では「シャワーがあるかも期待できません。寝袋かもしれません。その覚悟はしておいてください」と、ツアー参加者には伝えておいた。参加者は全部で60人くらいで、大学生などの若い人が多い。バスは二台に別れ、私ともう一人の添乗員、それに通訳が一人ずつついた。参加者の点呼を終え、バスの前でガイドを待つが、待てど暮らせどやってこない。もう出発しなくては、という時に、向こうからツアー担当者が来るのが見えた。「うちのガイド、来ないんですけど?」と聞くと、「あ、昨日キャンセルになったんや!ごめんな!何とかしてや!」と言い、彼は足早に去っていった。

 一瞬頭の中が真っ白になった。ここはイスラエルの北にある港・ハイファで、西岸地区の最初の街まで約二時間。その間を何とかしろと・・・?これだから観光地じゃない添乗は嫌だ!何がどうひっくり返されるか分からない。それでも添乗員は何事もなかったように物事を運ばねばならないのだった。仕方ないので、私が以前にガザにいったこと、覚えている限りのパレスチナの話などをし、その間に通訳さんが英語の資料に目を通し翻訳、それを交代でやりながら、なんとか乗り切った。途中、バスをイスラエルのものからパレスチナのものに乗り換えた。



 ナブルスの街を訪問したりして、夕方に例の元刑務所という合宿所に到着した。案の定、そこは12人部屋くらいの大部屋。そこに荷物と参加者を入れて、夕食の準備にとりかかった。この合宿所は西岸地区に点在するパレスチナ自治区からパレスチナの青年たちがやってきて、お互いに意見交換をしたりする所で、私たちが訪れたときもたくさんのパレスチナ人があちこちから集まってきていた。夕食後、ディスカッションや踊ったりとたくさんのプログラムが用意されていて、とても有意義に過ごすことができた。この合宿所で合流したガイドの女性が「パレスチナ人のこんな明るい顔を見たのは初めて」という言葉が印象に残っている。いつもはとても暗い、というのだ。彼らにとってこの日はどんな夜だったのだろう。パレスチナ人の一人は、「遠くから来てくれたことだけでもうれしい。こんな楽しい気分は久々だ。僕たちのことが世界から忘れられたのではないか、という恐怖が常にあるんだ。どうか僕たちを覚えていて」と、笑いながらいった。身を切られる思いだった。ディスカッションの時間などはとてもつらくてシリアスだったが、その後私たちは、夜更けまで踊ったりおしゃべりを楽しんだ。中にはお互いに手紙交換をするのだ、と言っている参加者もいた。そんな彼らを見て「本当に手紙がやりとりできるのだろうか・・・」と切なく思った。

 翌日の早朝、この元刑務所に実際に入れられていたという、合宿所のリーダーの一人が私に「改装していない当時のままの刑務所があっちに残っている。見るか?」というので、お願いした。ここのリーダーの何人かはこの刑務所に実際に入れられていた人々で、彼らが投獄された時の話などは、昨夜すでに聞いていた。朝食後、希望者を集めて彼の後についていった。そこにはずらりと房が並んでおり、一つの房が6、7畳に見えた。「ここに30人もの男たちが入れられていた。窓は完全に塗り固められ、昼か夜かも分からなかった。時間の間隔がなくなるから、指で一日づつ、壁に傷をつけた。小さく座ることも出来ないくらいとても狭くて、寝るときは一列ずつ交代に座って寝た。」と彼は淡々と語った。なるほど、壁には縦に並んだ細い傷がついている。実際に30人で房の中に入ってみたが、これでは立つのもやっとだ。ここで彼は何ヶ月も耐えたというのだ。その他、実際に拷問を受けたというトイレなどがあった。そこに、昨日の一緒に笑って歌いあった陽気なパレスチナ人はいなかった。彼の顔は苦痛にゆがんでいた。



 合宿所を出発した私たちは、ラマラに到着した。アラファト議長府で歓迎のセレモニーなどを受け、今度はエルサレムに向かった。東エルサレムで再びパレスチナの抱える問題などの話を聞いた。駆け足で黄金のモスク、嘆きの壁、聖墳墓教会と、3大宗教の聖地を訪問した私たちは、死海へと向かった。すっかり夕方で、死海での時間はあまり多く取れそうもなかった。死海のビーチに到着する直前、ガイドの携帯にツアー担当者から私宛に電話がかかってきた。「アラファト議長にお会いできるかもしれない」というのだ。バス二台のうち、希望者を募って半分はこのまま死海、半分はアラファト議長にお会いしに行こうということになった。添乗は私だ。「お会いできるか100%の保証はありませんが、死海よりアラファト議長にお会いするチャンスを選ぶ方は、死海到着後、10分でバスにお戻り下さい。すぐにラマラに引き返します」と伝えた。死海ももちろん、この旅のハイライト。やはり半分以上の方はこのまま死海で泳ぐという。私も死海を楽しみにしていたが、それどころではない。バスはそのまま、ラマラへと引き返した。

 40分ほどであっただろうか、ラマラに近くなったところで再び電話がかかり、議長にお会いできることが確実になったと伝えられた。バスの中がにわかに興奮に包まれる。議長府の細長いテーブルが置かれた会議室に私たちは案内され、そこでアラファト議長がやってくるのを待った。



 待つこと数分。アラファト議長がやってきた。ショックだった。テレビや写真で見るアラファトは眼孔が鋭く、好戦的でまるで鷹のような印象が強かったからだ。実際の彼は、優しい笑みを浮かべた好々爺だった。どうみても、ひなたぼっこをしてそうなおじいちゃんだった。彼は話を終えると「何か質問はありますか?」と私たちに聞いた。私は大胆にも手をあげた。以前からずっと疑問に思っていたことがあった。それはそれまでやってきたエリトリアへの支援活動を通して、ずっと悩んできたことでもあった。「私たちはとても小さくて、何の力もない。それでも、私たちにできることはあるのでしょうか。」彼は静かにいった。「こうして来てくれたことだけでも勇気になります。私たちを覚えていてください。そしてたくさんの人に、このパレスチナであったことを伝えてください。」始終彼は笑みを絶やさなかった。そこには、PLO代表の、時にはテロの親玉とさえされる、猛々しい様子は微塵もなかった。全くの好々爺だった。帰り際、議長は一人一人と握手してくれた。私が部屋から退出するとき、やはり握手をしてくれて、さらにほっぺたにキスをしてくれた。同じ人間の、温かさだった。アラファト議長に何かがあったら、このパレスチナはどうなるのだろう?そう思うと、悲しくなって、空を見上げた。きれいな星空だった。



 翌年、私は再びハイファを訪れた。今まで港からパレスチナに直行していたので、イスラエルがどんな所なのか、全く知らなかった。ショックだった。どこまでも白浜の続く美しいビーチ、海に面した高級マンション、おしゃれなショッピングモールに、手入れの行き届いた公園。子供たちはのんびりと海水浴をし、奥さんたちは芝生の青々とした公園で赤ちゃんを抱きながら井戸端会議。それはヨーロッパの他の都市と、全く変わらない風景だった。日本と、と言い換えてもいいだろう。静かで、美しくて、平和な光景だった。これがイスラエルなのか。パレスチナで見たものはなんだったのか。あの難民キャンプで暮らしている人から見て、この別世界はどうだ?この平和な光景が、たくさんのパレスチナ人の犠牲に成り立っていると・・・?きらめく海に落ちていく美しい夕日が、ひどく歪んで見えた。あれからほんの二年だが、ブッシュになってからパレスチナの状況は悪化するばかりだ。パレスチナは決して私たちにとって遠い存在ではない。パレスチナは、私たち国際社会の助けを待っている。

−−やりきれない気持ちが、未だに私から去らないでいる。



*パレスチナ問題について知りたくなったら

イスラエル・パレスチナ 平和への架け橋」(高橋和夫=監修/ピースボート・高橋真樹=編著
我が友人、高橋真樹氏が書いております!!「平和・共同ジャーナリスト基金」から賞も受けました!ぜひぜひご一読下さい。

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敵対するイスラエルとパレスチナにあって、平和を求める若い男女が「ピースボート」で出会い、絶望的な状況下で共存への道を探った──パレスチナ問題格好の入門書。


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