5日目 敦煌 玉門関・河倉城遺跡 陽関 西千仏洞 /蘭州へ

ついにウェンディーたちとの別れの朝がやってきた。
唐突に3人旅がはじまったが、それも今日で終わる。二人はやはり予定変更してりカシュガルまで行くのだと、朝8:00のバスで去っていった。出会ったのと同様、別れも唐突だった。それが旅の良いところで私を大いに魅了するのだけれど。

簡単に食事を済ませ、荷物を詰めてチェックアウト。荷物をフロントに預けて、宿泊所のすぐ近くにある旅行社へと向かう。イギリス人のカップルは既に私が来るのを待っていた。旅行社に今日の代金100元(約1500円)を払い、8:30に私たちを乗せた車は敦煌の街を出発した。
 

案内してくれたのは中国人のドライバーだが、全く英語は通じない。どこへ向かうのかもさっぱり分からない所だったが、同行したイギリス人のカップル、ピーターとパットが少し中国語を話せたので助かった。二人はウルムチで英語を教えている英語教師で、今回休みを利用してこちらまで旅行に来ているのだという。「中国にはもう疲れちゃった。本当は日本に行きたいのだけれど、日本は最近アメリカ英語ブームで、イギリス人にはなかなか仕事がないのよ」と彼女は言う。もうすでに50に近いだろうそのカップルには、気象条件の厳しいウルムチは身体にこたえるのだろう。

車を走らせること一時間以上、ようやく第一のポイント、玉門関に到着した。当時はかなり大きな街があったというが、今はその面影はどこにもない。風にさらされ、土塊と化した巨大なゲートがぽつん、とあるだけだ。2000年もの昔、ここでは壮大なドラマが繰り広げられたことだろう。漢の初代皇帝・劉邦の曾孫にあたる武帝の時代(在位141〜87B.C.)には、開国以来の宿敵・匈奴をも倒し、大宛(フェルガナ)まで遠征しその版図を最大のものとした。その時の遠征路がシルクロードへと発展し、東西貿易の舞台になったのだった。シルクロードの定義は様々だが、「ローマから奈良」という説もあるので、史上最長の道であったと言える。

その玉門関から道なき道を更にすすむと、砂漠の中に忽然と姿を現したのは、完全に風化してしまった河倉城(かそうじょう)遺跡だ。廃墟系遺跡ファン(??)にはたまらない風化具合である。今にもくずれそうなその建造物は、漢代の軍需食糧倉庫であったという。遺跡の近くに寄ってよく見てみると、遺跡には貝やらフジツボやらの化石がくっついており、昔は河の際に建っていたのだろうと想像できる。

この河倉城遺跡の周囲には万里の長城跡や烽火台の跡が随所に見られる。藁と土を何層にも重ねたその長城は、北京あたりで見るものとは全く違う。ここがかの万里の長城の、万里の果てなのだ。その風にさらされた土塊を見つめていると、2000年の時の長さ、人のはかなさを思わずにはいられない。


玉門関・河倉城遺跡

玉門関・陽関は漢の時代に作られた関所の跡で、この門をくぐるとそこから先が西域。当時のシルクロード貿易の中継地点であり、当然重要な軍事拠点でもあった。この関所を通って、絹や中国文化そのものが輸出され、有名な汗血馬やブドウといった西の産物、そして仏教が輸入されたのだった。防衛の要だったこともあってか、この辺りには漢代の長城の跡が多く見られ、各所に烽火台が見受けられる。ここからのろしをあげると、一日で長安(今の西安)の都まで敵の来襲を伝えることが出来たという。

玉門関。ゴビ灘をひたすら走ると現れる。ここが人々でにぎわっていたとは考えられない!
玉門関からさらに20km西に車を走らせると、風化寸前の河倉城(かそうじょう)遺跡が現れる。
近くには川が流れているが、その周囲以外は見渡す限りの荒涼とした砂漠。2000年の歴史を感じる。
漢代の烽火台跡。ここでのろしをあげると遠く長安の都まで一日で鉄器来襲を伝えることが出来たという。ロード・オブ・ザ・リングスの映画みたい!! 漢代の万里の長城。ここは宇宙からも見える最大の人工物・万里の長城の最果てである。私にとって本日最大の見所!
どうみても只の土塊だが、万里の長城のなれの果てだと思うと心がふるえる。

料金等
現地までの公共手段は全くない。ツアーも一般に募集していないようなので、タクシーを旅行社に手配してもらうしかない。私の場合は文中にあるように、前日に旅行社に行きたい場所を告げ、その場所に他にも行きたい人がいないかを募集してもらった。今回は3人で一台の車をフルチャーターし、一人100元(約1500円)。行き先は玉門関・河倉城遺跡・陽関・西千仏洞の4カ所。玉門関・河倉城遺跡の入場料は40元、陽関が40元、西千仏洞30元。旅行社を通さずに直接タクシードライバーに交渉すれば更に安上がりだと思うが、本当にちゃんとこれらの場所に連れて行ってくれるかは不安。英語は全く通じない。旅行社でお願いした方が無難だろう。



すでにお昼を回っていたが、昼食を食べるような所もないので車内でカロリーメイトをかじり、軽く食事を取る。今回の旅では食事をとることがとても困難だったので、こうした食料がとても役に立った。イギリス人カップルもパンなどを持ち込んでいた。

さらに車は砂漠をゆく。道はなく、前に通った車の跡がかすかに見えるだけだ。周囲に音はなく、砂が目に痛い。観光客をほとんど見かけない砂漠を疾走するのは、日本では絶対味わえない冒険だ。

次に訪れたのは陽関。玉門関が北の関所ならこちらは南の関所で、そこには烽火台がかろうじて残っているだけ、あとは四方八方殺伐とした砂漠が広がっている。かつてはあの玄奘三蔵もインドからの帰路にここを通過したというのに、今ではその繁栄ぶりは影も形もない。強風が吹いたあとには、当時の陶器や貨幣といった遺物が発見されることがあるという。

その陽関の烽火台の手前に今年オープンしたばかりだという博物館(というかテーマパーク?)があり、まずはそこを見学した。なかなか立派な作りだが、どういうわけかお客さんは一人もいない。その博物館は周囲に当時の村や町を再現し、中央に城壁に関する展示室、シルクロードに関する展示室を設置してあり見応えがある。城壁の博物館で見学しているとなんと日本語を話すおじさんがおり解説をしてくれた。パットたちにも英語のガイドがついたようである。お客さんは私たち3人ぽっちだったのだから大サービスだ。中国人観光客かな、と思うとみんなそこで働いているスタッフだったようだ。

一通り館内を見学し、いよいよ烽火台へ。烽火台までその博物館から結構な距離があり、電気の車でひっぱっていってくれる(5元)。そのまわりには馬を引っ張るおじいさんがとぼとぼと歩いており、あんまりお客がいなくて心配になった私は馬に乗せてもらい、その烽火台の周りをまわってもらった。つい今日の晩ご飯代は稼げたのだろうか、などと余計なことを考えてしまう。この辺りにはこういうおじいさんやおばあさんがたくさんいて、砂漠の中をとぼとぼと馬やラクダを引いて商売をしている。


陽関 西千仏洞

今年オープンしたばかりの博物館(テーマパーク?)
中には当時の村の様子などが再現されているようだが、未完成。
ここがかの陽関!辺り一面は砂漠化し、当時の面影は全くない。
西千仏洞。こちらも莫高窟と同じように中の壁画等は撮影禁止。 西千仏洞の整備されていない地区にあった洞穴。莫高窟も発掘される前はこんなカンジだったのかも。 西千仏洞はこのような谷間にある。残念ながらその大半は破損している。


本日最後のポイントは西千仏洞だ。すでに日は西に傾きつつある。さすがに朝からほとんど飲まず食わずでヘトヘトだが、3人とも気力を振り絞って見学をした。この石窟は莫高窟と同じ形式のものが多いと言うが、残念ながらその大部分が損なわれてしまっている。その石窟を案内してくれた人は全く英語を話さなかったが、「北魏」「北宋」など日本語でその時代の名前だけを教えてくれた。

敦煌の街に戻ってきた時には既に16:30を回っていた。15:00くらいには戻るという話だったので、敦煌市博物館を見学しようと思っていたのだが時間がなくあきらめた。沙州市場の近くにある評判の麺屋さんで食事を取ったあと、市場で母のためにアンティークの布などを購入した。

敦煌駅のある柳園行きのバスは19:00発。敦煌の街から最寄りの鉄道駅までは何と130kmも離れており2時間もかかるので、敦煌発23:37の寝台列車に乗る為にはこのバスに乗らねばならないのだ。ミニバンの辛いところは(中国のバス全部だけど)狭い空間だろうがお構いなくたばこを吸われること。偶然乗り合わせたのはトロントに住んでいるという英語ぺらぺらな中国人で、彼とおしゃべりすることで少し救われた。

やっとこ駅に到着すると見覚えのある顔があった。ドイツ人のクレイグだ。彼はこの列車で西安まで行くのだという。敦煌から西安までは約24時間、およそ1800km。私の目指す駅・蘭州までは約13時間の道のりで、いわゆる「河西回廊」をまるまるこの列車で旅することになるのだ。

前から後ろからもみくちゃにされながらやっと列車に乗りこむと、まだ棚があいていたので荷物を載せようとしたが、後からきた中国人に占領されてしまった。普通一生懸命載せようとしているんだから手伝おうとするんじゃないのっ!?とかなりムッとしたが、仕方ないので足下にバックパックを寝かせて寝台に上がった。やがて消灯、上段だったし、かなり窮屈で参ってしまった。私のような小さいサイズでつらいのだから、大人の男性にはツライだろう。しかし疲れ切っていた私はそのままぐっすりと眠りについた。



4日目へ / シルクロードの旅 Top / 6日目へ

ホーム  旅のはなし  旅の記録  旅のランキング
旅の写真たち  愛すべきオミヤゲ  旅以外のこと